最近の読書録 ★3月30日『ユリイカ』2005年4月号が“ブログ作法”を特集

http://www.linelabo.com/books.htm
鈴木一誌「遮光された部屋 ブログの画面論」。

【〔…〕批評が「同一地点での下降と上昇に自身を擦過させ」ることならば、批評は線的な運動だということになる。書き手が基底材と同体になるとは、あらかじめ書く運動が面となるということだ。面化した文章体験は、ブログデザインの平面的な諸パネルと親和し、日付やカレンダーの「今」とも平穏な関係を築くことだろう。面であることを約束された平穏さには、新奇なことがらが書かれるかもしれないが、下降と上昇はない。書き手が基底材とイコールであるとき、書き手が基底材を超えることもなければ、基底材によってテクストが批判される機会もなくなる。ブログの扉はたしかに開け放たれているが、その扉が動線を導くようにはいまだ見えない。中上が書くように、「物語という重力」を認め「小説が批評であるはずがない」ということを首肯するとき、批評は重力からの離反だということになる。考えてみると、わたしたちのあらゆる身ぶり、行為は、重力という回路を通った、いわば迂回の産物でしかない。それゆえ、われわれは「表現された重力」を享受したいと思うし、「パッケージされた重力」をたなごころに収めて??みたいと欲望する。ときとして「表現された重力」の帰趨を、重力としての自身を通して、いわば「存在の崩壊」の危機を賭しながら、見とどけようとする。ひとが重力という迂回路を通じてしか自身の運動をあやつれないのだとしたら、批評は、その迂回を二重に生きる労苦である。「表現された重力」から身を引き剥がさなければならないのだ。その線的な運動は終わることができない。迂回が重層化したブログと、同じく迂回が重層化した批評とが、向きあっている。それは、面と線の対峙でもある。批評は、ブログに言うだろう、「今」がそんなに好きか。】。

知的刺激と示唆に満ちた指摘。